The best way 651's diary

どんな事があっても、自分自身で前向きにひたすら歩き続ける。1歩1歩の楽しさを感じよう!

-第5章-

― 高血圧症から克服 ―

 
高血圧が発覚したのは、2005年11月の時だった。

何故そうなったのか?

理由は、たくさんあります。
 
遡れば、2004年の頃だったでしょうか。。。

僕のいつも側に居てくれてた祖母が、年が年だったのもあって

少しずつボケになりだしてきてて、その時は、家族の周りが

祖母の事をボケになってるとは思ってもなく自覚もなかったんです

祖母が、骨粗鬆症によって腰を痛め。。。

だんだんと布団の上から寝るようになった、

長年ずっと、僕の事を大事にしてくれてて、心臓発作になって苦しい時も

高熱を出して寝込んでる時も、体が弱くて風邪を引くとなかなか治りが悪く回復がままらない時も

ずっと見て介護してくれてた。

その事を、小さい時から生きてきた分の時間とか流れを改めて見直すと

すっごく感謝がいっぱいいっぱいで、心からどれだけ大変だったか・・・

そう思った、
 
今度は、僕の番で恩返しとして、祖母を介護してあげなくちゃだ!!!と決意して

行動するようになった、と同時に母親は、高血圧であまり体調がよくなかった頃でした。

だから、母親を負担を掛けずに、なるべく僕が出来るだけ行動範囲をやってカバーしていた

けど、祖母がボケが酷くなっていく・・・

トイレの時は、介護用のトイレ(どこでも移動が出来る便座椅子)を使って

何かあった時に大変だろうから、僕が側にいて支えてました。

この時にね、すっごい不思議なの今でも覚えてます。

祖母がボケてるように見えるけれど、心の何処かに普通なところがあるんです

トイレから用を足して終わると、座るとこから立ち上がるまでのパッと出来ないんですよね

高齢でもあるし、力が無くて衰えるばかりで

なのに祖母がいつも、僕の事を顔をジッと見て、「ありがとうね。ありがとうね。」って

言いながら自分で必死に動こうとするんだよね

僕が、「大丈夫だよ、心配ないからね。大丈夫!ゆっくりで良いからね。」

と言い聞かせてあげながら

祖母の両脇を倒れないように両手を抑えながら、一緒に後ろから支えながら歩いてあげて

よたよたしながら歩いて行くんだよね。

歩いてる姿の背中がすっごく小さく丸くなっててさ、「あぁ・・・小さくなったなぁ」って感じた

背中を見ただけなのに辛かった、、、

見ながら涙がが出て、泣いたら聞こえちゃうから我慢して食いしばってた

祖母がベッドまで移動して、寝る所まで見てあげてました

とうとう、衰退していって寝たきりになっていた、僕は必死に頑張ってたんだ。

祖母がボケで、まず分からなくなるのは、「時間・食事・会話」

けど、名前だけはしっかりと覚えてて何かあると「伸ちゃん、伸ちゃん」って呼んでたりする

僕ね、この辺がおかしくなっていたのは・・・

ずっと寝ていなかったからです。

祖母が、衰退するまえにちょっとだけ動けてて、座って食事が出来る範囲で

何かあると僕をゆすり起こして、「ご飯が欲しい。とか、パンが欲しい」とかでした

トイレは、たまに自分で動けたりしていて用を済ませて寝るって感じだったんです

起こされる回数が頻繁で、寝るに寝れない状態が続き。。。

仕方なく、寝ないですぐ支度が出来るように体制をいして、

祖母が注文があると、用意してあげるという感覚でした。

それが、毎日毎日続いていて気づけば2年半が過ぎていた・・・

そう、僕は「睡眠を取る時間」を忘れていた。

なのに、体を壊したのを3回ある。

夜中だったかなぁ?

祖母が居るのは二階で、下が料理して、お盆を持ち階段を登ろうと思い

ここからが、気付いた。。。

お盆を持って上がろうと、3段目へ足は行けたんだけど、船酔いする感じだった

あまりにフワフワするし、本当に船を乗ってるようにゆらゆらしてて

あまりに気持ち悪くなり、

祖母の目の前で心配かけたくなく、何も言わないで食事の用意を出してあげて
 
すぐに、家庭用の血圧機を測ってみた。。。
 
1回目、エラー
 
2回目、エラー
 
3回目、エラー

4度目も、エラーだった。

測定が出来ないのと不安が大きくあって
 
この時に、一緒に寝ていた部屋から隔離して翌朝の病稲へ診てもらう事に決めて初めて寝た。

翌朝、父親と車に乗って病院へ駆け込んで血圧を測らせてもらった

最高値 259 最低値 190位上越し、下の血圧が測れない。

医者からこう言われた「あなた、どうやって来た?」
 
僕 「自分で歩いてここまで来ました。」
 
医者 「そのまま状態でいると、脳がいつかプッツンになって死ぬよ」と宣告された
 
僕は、
 
「あぁ・・僕は血圧の原因で、生死の境地にいるんだな・・・このままだと

いつ死んでもおかしくないだな・・・」
 
と心の中でヒビが入ったようにショックが大きかった・・・
 
医者が、処方箋を出しますがはっきり言います。
 
この薬は、一般の高血圧を飲む薬はありません。
 
もっとも危険な薬です。1錠ズレて飲んだり、1日飲み忘れたり、

2粒を飲んでしまったりしたら、どうもこうも出来ません。

処置も難しくなります。
 
もっとも危ない薬ですので絶対に間違いだけは注意して下さい!と
 
処方箋を貰って、ここから大変な毎日になる。。。
 
祖母の事を介護してあげたいけれど、、、

祖母から離れるのは辛いけれど、このままでは僕が先に死んでしまうと思い
 
隔離して、寝るようにする時間と自分自身で決意した食事制限。

ここから闘病中の苦闘だった。。

祖母を見つつ、僕も病気を直すのに闘い日々、

ある日、祖母がいつものと違う感じだった・・・

家族全員疲れていた

祖母が、1人ずつ名前を呼んでた。。

僕が分からなくて用事を済ませてから、祖母の所へ様子見に行ってたら

祖母が寝てるように息してて

僕は勘違いして寝ているんだなと思い込んで、自分の部屋へ戻って色々と

自分の将来の事を考えていた。

母が二階へ上がり、祖母の食事をあげようとお盆を持って行ってみたら

母が、僕の部屋へ入ってきて、「祖母が息を引き取ってた」と・・・

僕は、一歩遅かった。。この時は本当に悔しかった。

最後まで見てあげられなかった。

でも、綺麗な感じだったので僕が祖母へ感謝と恩返しし切れなかったけれど、

「本当にありがとう」って言って頭を撫でてあげた

しばらくして、祖母が居くなり。。。

僕は、ちょっとぼんやりだった、血圧もあって闘病なのに心寂しい気持ちが強かった

仕事は、まず出来ないから

治すことから始めた、食事制限をしていた

大きな茶碗だったのを辞め、お子さんが使う茶碗へ切り替えて

塩分を控え、脂身のある肉とかも控え・・・・

もう、何から何までカロリーを削れるところまで削った。

闘病中には、大変だったのは・・・

まず、立って歩くバランスが取れなくなる。

立った時にぐら~んと倒れそうになる。

2年半も続けて、介護していた(気を張っていた)分が途切れて、急だったのか?

精神的に疲労にもあって、片耳しかないのに幻聴になりかけたし、薄々聞こえるのもあった

毎日が苦しい、毎日がしんどい、

何するにしても楽しくない。

本当に地の底へ落としたような気分だったのを覚えてます

苦しんで、悲しくて、寂しくて、疲れた

もういい・・・疲れたから、もうこの辺にしようかと思うほどきつかったのも覚えてる。

精神的がもう、鉛筆削りみたいに削れていく自分が居て。。。

幻聴が強くなってきてて、よく聞いてみると祖母の声が聞こえてきてて「伸ちゃん。。。伸ちゃん。。」

と呼んでいる。

居ないのに、ホントに居るように聞こえる。

ついに、自分の精神が壊れていく姿が、自分自身に感じて・・・

もうダメだ、このままだとホントに壊れる。

自分で取り出した「カミソリ」だった。

そう、見ていれば分かる話。。。

左腕に、思いっきりしたさ・・・・すばぁぁと、

もちろん血が出ます。。。。

血が出た時は、温かい血が垂れてティッシュの上にポツンと1滴堕ちた。。。

ハッと我が自分に返ってきて、慌ててティッシュで抑えた。

当然、傷が残ってしまう。。

切ってしまったんだから仕方ない。。。

でも、この血の温もりをジッと見て考えてた、

血は、自分の体の中に必死に回って動いている。

寝ていても、起きていても、走っても、ジャンプしても、どんなカッコしても

ちゃんと駆け巡りに回してくれる

そうか、「生きている意味は、何か?」と・・・

自分で自分を見直す時間のキッカケが出来た。

親に見せられたら困るから、カモフラージュにするために

テーピングして隠していた

何日かずぅーっと、「生きる意味を探してた」

考えたり、自分を見直してみたり、

小さい頃から何も出来なかった自分があった・・・。

これから、生きていく場所はどこなんだろう?と

必死に探した、「生きる意味とは」考えだすと難しい。

どうすることも出来ない自分があって悔やんだ毎日、、、

そんな時に目が入った・・・


YouTube


YouTubeを見るようになって、初めて見た映像は、「瀬戸弘司」さんの初レビュー

瀬戸弘司さんのウクレレを引いてた動画を観て

何故か、心が落ち着いていた、、、

何だろう?さっぱりした感じと言うか雰囲気がおっとりしてて、ちょっと面白い

次はどうなるんだろう???って思い始まって

お気に入りして、次のレビューが来るの待ってた、

そしたら、iPadの紹介と顔出し動画が映った動画になってて

あ!この方なんだ、すごい詳しく教えるチャンネルなんだなぁーと

何か心が落ち着くし、この展開どうなっていくんだろう?と

だんだん、自分が悩んでいた道を一応、休めよう。。。と決め、

それから、ずぅーっと瀬戸弘司さんの動画を見るようになり、陰ながら応援しつつ

「瀬戸さんの変化していく動画が楽しみだ」と言う自分がいて

コメントを入れるのが怖くて、ただ、普通に観ていていました(笑)

なんかちょっぴり前向きに自然に入るようになった。

そして

次に入って来たのが、秋葉さんでした。

なにかで紹介みたいなのがあって、そこへポチと押したら

秋葉さんのチャンネルになって

色んな製品について、すごく詳しく実演みたいな感じで

ああ、この方もスゴイなー!ってなってこれもお気に入りしていた

2人のレビューを見つつ。。。

色んな風景を見せたり、製品を見せながら、こんな感じになります!とか

これをこうすると便利になる!とか

楽しい動画だったのをすっごい自分の中では印象が残ってます。

YouTubeで長い時間を見ると疲れちゃうから

気休めして、時には、生きる意味って何だろう?

生死に近い境地に居る自分が、明日死ぬのかな?明後日かな?

いつ死んでもおかしくない自分がいる間は、何が出来るんだろう?

苦しい時間の中・・・

考えていくと、本当になかなか無いんだよね。

YouTubeを見ながら、思い悩んでいた・・・

悩んで悩んで、生死の事も、生きる意味も、闘病してから、

1年半過ぎた。。。

やっと、血圧が徐々に下がってきて、もうこの時は

卵がけご飯だけがメインで、何も要らなかった。

ようやく、立ちくらみが無くなって精神的にも落ち着いてきた頃

いつも、大好きな場所は、YouTubeだった。

これを見るのが楽しみで観ていた

瀬戸さんが、会っていく人がちょっとずつ増えていく。

秋葉 仁さん

ジェット☆ダイスケさん

前原さんの子どもが出てきて「ポッキーの事をやって欲しい」とお願いしてた動画

そして、秋葉 仁と瀬戸弘司さんが、北海道への旅

動画の中で紹介していたのは、革職人の宗さんだった

こんな感じで、楽しくワイワイしていく姿があって

僕は、観ていて羨ましいな。

誰かが居て、旅をしたり、掛けあったりする事は大事なんだなって思い。

2年目を越して。。。

やっと、「生きる意味」の答えが分かった。

生きる意味は、人はそれぞれ、人の道は、

「自分の足で歩いた分の時間」

「歩いた分の人生の道が出来るのは時間を作った後」

「この先を歩くのは、流れを作る」

「生きる人生=時間=流れ」これを足し合わせると「生きる時間」

つまり、どんな流れであっても、思い出や気持ち、感情とか

時には、素晴らしさを感じる。

それが、「人の道」と僕は、そう思う。

ベッキーさんみたいに、ポジティブに生きる+楽しい時間を作る=ポジティブの道(人生)

僕は、なんか少し答えが見つけれたかもしれないなぁ。。。

例え答えが間違っていても・・・

人はそれぞれだし、生き方も違う

そう思うと、僕のような障がいを持ってほしくないなって思う。

健康な人、障がいを持って前向きに突っ走る人、様々な人がいるけど、

全てが、人として尊敬して明るく会話したい想いが1番大きいです。

見ている方、僕の事を考えが間違ってるとあったら

僕から謝ります、ごめんなさい。


― 人生が大きく変わる ―


YouTubeのお陰で、沢山の人を触れるもの、製品を触れるもの、語ること

そして、風景

色んな意味で、僕は助けられた。

やっと前向きになれた瞬間だった。

2年半過ぎて。。。

2年半過ぎて、ここまで来て生きられた事が嬉しかった。

かれこれと、食事制限・カロリー計算などを考え

やっとの思いで、血圧が正常値へ近くなってきた

これで当分、「明日は死ぬ」とかは気にしなくても大丈夫な状態へ来た!

その意味になると、凄く嬉しく心の中で泣いた。。。

長かった・・・

いちばん長かった・・・苦しかった、辛かったよ、もう死ぬと言う思いは無くなった。

よし!ここからだ!