初めて明かす【苦しんで乗り越えた過去】
さてさて、もうすぐ7月7日間近ですね!
タイトルの通り。
【苦しんで乗り越えた過去】は
実は、このブログの中で書いていない場所を飛ばして伏せて繋いだものです。
あまりにもショッキングが強すぎるな・・・と判断したため、省いたんです。
すっごい長い文章になります。大丈夫なのであればそのままを読んでも構いません。
強いショッキングなります。無理だ!っていう方は閉じてください。m(_ _)m
では、下の方へ
・OD(お薬を過剰に飲んで○殺しようとした)数回経験
・アムカ=腕を切る意味で傷つける行為 数回経験
なぜ?こういうことに引き起こしたのかと言うと
自分の体調や障がいの辛さで出てきたストレスから来た原因。
詳しく言うと・・・
生まれつきで嫌になってたのもあって、いつも小さい頃から家族全員健常者でナゼ?僕だけなの?っていう疑問を抱いたり心臓手術前だった頃の自分は、2階の窓を開けては弟達が友達と一緒に楽しそうに外へ飛び出していく風景があったり自分の家族じゃなくても他の人が普通に歩いてて楽しそうに会話しながら通ってるのを眺めてたのを今でも瞼(まぶた)の向こうに鮮明に浮かんできます。
よく言ってたなぁ、弟2人いたので一緒に出て行ったねぇーって、その頃は祖母や母が元気だったので口癖のように語ってたのも覚えてます。
毎日、窓を開けては「あ!帰ってきた!とか、あ!出かけていった!とか」悔しながらも見ていた。
祖母や母が、僕の後ろ姿を見てると可哀想だったみたいでわざわざ車いすを買ってくれてて買い物時だけ一緒でした。
心臓発作起きると、もう動けず布団の上に寝込んだままが日常。
その当時は、学校へ通える状態じゃなかったので家庭訪問して来てもらって1日2~3時間しか勉強出来ないほどの病弱。
具合が悪くて全然勉強が出来ず、ずーっと寝込んだのもしょっちゅでした。
そのせいで、よく覚えてないけど家族へあたってたりしたのは確かだった気がします。
中高生も同じ、ずーっと家庭訪問、だから「友達」と言う言葉はもう夢の中の夢の話のようなもんで(笑)簡単に言っちゃうと憧れだよね。
病弱ながらも学力もさっぱりで賢いところか成績バカでしたから(汗)
養護学校と言う高等3年行かずに卒業してしまうと一般社会で働ける形にならなくので卒業手前で普通の高校夜間部高等学校と言う方向へ転向。
コレも、当時20才過ぎた頃に心臓手術2回もしてリハビリの間、通学していました。
夜間部は居たものの、友達が出来ず卒業までに一人っきりで成績だけは少し上げたいなと頑張ってたのを印象と言うか覚えてる。
夜間部高等学校を卒業後に、次に仕事になりバイトが始まる。
もはや、「遊ぶ」という時間もない。
リハビリとの合間が大変だったので、自分のペースで動くのが精一杯だった・・・
2年位だっただろうか?父の仕事の事務の慣れを覚えて、ちゃんとした自分らしい仕事が無いかと考えた、父の紹介で別の会社へ行き面接し通って4年半頑張ったさぁ。
正社員じゃなくてバイトのようなパートその頃は、夜の居酒屋や飲食店が多くて、僕の仕事場のサービス業は、「名刺・チケット・ポスター等々」を作るイラストレーターをいじらなくてはいけない。責任者が過労していたせいで入院中に、たった、僕だけがぽつんと仕方なくそこに置いてあった本棚を調べイラストレーターの動かし方等を独学に勉強し取得した、そこからデザインやアイデアや色具合だけは別格ですば抜けてて、
僕の採用の方法でお陰で色んな店でも売上グングン引き上げた。
その脇に妬みで、プリンターを止められたりパソコンを動かなくさせられたりも頻繁仕事が出来ずの連続、しまいには僕を辞めさせようとわざと正社員の机上にぽんっと
ギラギラしたステンレス製の切れ味の良いキッチンで使う道具が数本を月間ジャンプの本の間に挟んであった、、、
流石に僕をそれを見て察知して、何か揉みあいして事件になったなんてやってられないなと次の日に、社長へ電話にてバイトから辞めますと引き下げた。
それ以降、次のバイトが見つからず・・・3・4年くらいだったかなぁ?
ずぅーっと困ってたのを何度もハローワークへ行く時に父の車に乗って連れてってくれたのもあったり、、
ハローワークから連絡が入って聞いた話によるとたまたま一般でも進学しながらパソコンの資格が取れると言うパソコンスクールでした。
1年半ちょいだったか、遠い場所でしたけれど頑張って通学。
高校夜間部の時に少し勉強していたおかげで、パソコン資格が2種類取得出来た。
これを利用して頑張れると・・・・
そこからかなぁ、ちょいちょい狂いだしたのは―
うちの知り合いから教えてくれた紹介で、バイトと言う形の条件で
自分自身が障がいであるという書類、他の手続きを会社へ渡した後からがおかしかった
あれだけ言ったはずが、右目も見えないのと極度の疲労から来る左目の疲れなど
人間離れしたようなことをこき使わされる、、今に言えばブラックだねぇ。。。
お弁当を食べる時間が無く、お弁当は持ってくるものの食べずにずっと仕事を過ごしたこれ毎日ずーっとバイト期間が切れるまで頑張ろうと思ったが、、、
苦しくなってきてて自分自身が嫌になり途中で抜けて帰宅したりした。
母が僕のことを痩せ細っていくのを気づき心配してて弁当を食べろ!ケンカした事ある。それところじゃなくなってきて食べないで仕事してないと大量の仕事が追加入ってくるから必死に減らすのにやってた、1つしか無い左目が疲労でちょっとしたウトウトしていまった時に、正社員が椅子を蹴っ飛ばして起こされる「何やってんるんだ?」と怒鳴りつけ、、そこからだね。
僕が母を通して辞めるときっぱり言った、母がじゃあ辞めてもいいという形に入って、
その会社も辞めて・・・
数年がらぁーんと、次の仕事が無い。
そんな時に祖母が痴呆になっていて、母は体調の都合でよろしく無い頃だった。
母を任せると倒れたらどうにもこうにもならなくなっちゃうから、僕の役目として介護を決意、生まれた時からずーっと育て上げてくれた恩返しの気持ちとして、色々、祖母へ支えた。祖母が、飲み物が欲しいと言ったら持ってきたり、パンが食べたいと言われたらパンも作ったりして祖母を起こして、食べれるように小さな机みたいなのを乗せて食べてる姿を見ながら会話したりしてた。。でも、痴呆だから少しずつ進行していくから段々悪くなるんだよね。
その頃は2年間半、24時間中に寝ずに置きっぱなし、もう自分自身がコンビニ状態。
休もうとすると祖母が起こされるから寝れなかった。
何故か、祖母から口癖の様に「ありがとうねぇ、ありがとうねぇ」って言う。
悪くなっていくのに、だんだん祖母の力なくなってて僕が祖母の後ろに立って両脇を支えながら足させながら歩かせてた祖母が「ありがとう」って言う。
背中を見てるとねすっごく小さくなっていくのがツラくて涙がほろっと何も出来ない自分が悔やんだ。
今でも覚えてるんだ、痴呆になる前の元気だった頃の祖母がこう言ってた「ねぇ、しんちゃん、いつ結婚出来るの?おばあちゃん、そう長くないから孫でも見たいな。」
僕が「そうだねぇ、心臓が直ってるから考えなくちゃだね。」と言ったら祖母が「しんちゃん、約束だよ」ってにっこり笑ってた。
忘れた頃になると祖母がこう言う「しんちゃん、いつになったら車取れるかな?おばあちゃんと一緒に温泉巡りでもしたいな」って僕が「あぁ、そうだった!それも良いね」免許取れたら色んな所へ旅行するのも良いね」って言ったら祖母がにっこり笑った。
この2つが何も果たせず、祖母が痴呆と体力が無くなっててとうとう寝たきりになる。僕は辛かった、悔やんだ、食事しか出せない自分がいたからです。
実は、この時も僕が寝ていなかった原因で、心臓からくる高血圧が発覚。
髪の毛は左側半分だけ白髪も発覚 ←精神ストレス
気づいたのは、お盆を持って階段へ上がろうとすると上がれなくなる、見てると船みたいに波をうねうねと乗ったような感覚でが残ってて祖母は2階だったから必死に祖母のために上げるのに1段ずつ上がった祖母へ届けて僕が苦しい顔を見せずに、スッと逃げこむようにして、家庭用の血圧機を測るとオーバーで4回も警告した。
そう超えてて測れないというアラーム(汗)
すぐに部屋だけ別居して寝込んだ。次の日に自分への生死に関わる病気を告げられる。
僕は、祖母への感謝が大きいから祖母には言わないでおいた、
祖母がお腹が空いた時やつらい時に、家族の名前だけは覚えてて1人ずつ呼ぶ、ご飯を出すと喜んでて頑張ってた数日後に両親と僕は買い物から帰って来たら、祖母が必死に名前を呼んでた、痴呆だからという家族中にはもう疲労に疲労で重なっていたから母が後で食事に出すわって言ってて、僕が分かったと自分の部屋へ戻って祖母が痴呆が悪化にならないように祈ろうと願ってた虫の知らせだったんだろうか・・・
母がご飯を用意して部屋に入ったら息を引き取ってたと僕へ告げる。
すぐに祖母の側まで駆け込んで見たら、体が温かくてぐっすりと苦しまずに寝てるように見えてた。僕は涙流しながら、祖母の頭に撫でながらお疲れ様。本当にお疲れ様って
僕は、本当は息を引き取る前に聞きたかったんだよね。それが出来なかった自分がまた悔やんで攻めたけど、終わったことだから我慢して葬式や色々済ませた。
ここからが苦しい闘いが来た。
病院で測った結果。高血圧:上 254以上 下 190以上 超えてた。
医師は、ビックリしてどうやってきた?と言われ、僕は父が運転で病院に着いてここまで自分で歩いてきましたと返事したら、、釘を打ったほど告られた。
「もう、これ以上超えると、脳がプッツンで死ぬよ。生死に関わる」と直したかったらこれしかない危険の承知の上での薬だと、つまり、1粒以上超えて呑んだらアウト、飲み忘れもダメ、1日3回飲んでください。ただし一般で飲む薬ではない上だからと・・・。
今でもすごく覚えてる。
メニューは、自らガラッと変えた。この時点で、脂っこいものも塩分系も全てシャットアウト、ずぅーっと過ごしたのは、ご飯少々、卵かけご飯くらいだったなぁ・・・。
苦しいメニュー、苦しい血圧、苦しい幻聴、苦しいストレス、どれもMAXになり、もう家族中に八つ当たり(笑)ケンカしたり、ネガティブへ走ったり・・・
祖母が亡くなってるはずが、幻聴で呼ばれる。
精神的にキツくなり、心の正常心はもうすっぽりどっかへ行ったみたいになってて、またケンカしだしたりもう血圧だからもう治らないなと決心
死んだら死んだってそれでいいやポックリ逝こうって思った。苦しいからね。
考えてるヒマもなくて、OD(お薬を過剰に飲んでしまえば死ねる)と思って何度もやったがなっかなか成功しない。←良い子はやっちゃダメだよ!
幻聴が収まらず、自分が寝てても苦しくなるばかり・・・もうこうなったら!と布団の横に置いておいたカミソリをもってすぱっと切った肉が見えるほど1ミリ切った・・・
熱い体温から来る血液がぽたっぽたたた、、、と溢れて垂れてくる。
この時は、痛みよりもただ切った場所だけジッと見てた、血液ってこんなに「熱いんだ」と知った。温かい=生きている証拠の意味なんだな。と咄嗟(とっさ)に止血を止めるのにお薬やテーピングで抑えた。。母に見られたらバカバカしくなってくるから隠すのに苦労した。
また苦しくなると切る。という繰り返し・・・・幻聴が聞こえなくなった頃は、既に傷だらけ、フッ自分がバカだよ。OD走るわ、カミソリで切る事を走ったりするわで色んな事で1つ1つ乗り越えて行くのがやっと見えてきたのが4・5年後。
血圧が正常に戻したのは5~6年後。
その間は、生死と言うのは何なのか?ナゼ命ってのがあるのか?
生きる事は何?死ぬと何?という意味から医学&哲学&独学ミックスして、様々な角度を眺めた。
答えがやっと見えたのが
〝 自分の人生の道 〟= 〝 時間 〟=〝 流れ 〟=〝 楽しく作る 〟= 〝 幸せ 〟
スケジュール = 計画 = 流れ = 実行 = 進行
という仕組みを見えた。当たり前なんだけど奥が深くてよく分かってないともったいない理論なんです。分かる人は分かると思います。
今の自分は、体中に傷だらけです。
左腕にはキズあり、右肩にはキズあり、左足は小さい頃に火傷のあとがある。
胸には心臓手術2箇所の痕がある。
でもね、これを乗り越えた自分が居るからこそ、人生を無駄にしたらダメだってのが分かる。あと、TwitterやCAS・YouTubeでの繋がりは何らかのキッカケで縁があるから、昔から友達が出来なかった分をそれ以上に大事にしたくてずっと大事にしようって思う
そんな自分ですが、嫌いにならないでくださいm(_ _)m