The best way 651's diary

どんな事があっても、自分自身で前向きにひたすら歩き続ける。1歩1歩の楽しさを感じよう!

-第3章-


― 心臓手術の期間 ―

 
再入院は、7月か8月だったと思います。
 
1回目は、心臓を大きくするための手術をしました。
 
肺から心臓へパイパス=人工血管置換術と言う方法で・・・
 
手術成功して、数週間動けない状態でした。
 
そして、ようやく起き上がって食事を取れるようになり、初めてベッドから降りて
 
歩いて動けるようになったのがこのきっかけでした。
 
今まで、外へ出るには僕自身が動けなくて、いつもいつも車椅子の上に座ってたし
 
誰かが車椅子を押してもらわないとダメだったことも・・・
 
それを、考えたら感動でした!
 
あとは、脇の筋肉がつってしまう事がよくあってかなり大変だった
 
しょ・・食事もあまり、美味しくなかったな・・・(汗)
 
それから暫くして、退院
 
2度目の心臓手術が出来るまでには
 
1年後に、心臓が多いくなっているか?再検査をしてそれから2度目の手術の内容でした。
 
リハビリの為に、外へ出て歩くようにする。
 
1年間、特別に養護学校へ進学しつつ、勉強も励み
 
この理由は、次の年に本当の高校夜間部へ転校するためです。
 
その上に、毎日スクールバスに乗って通っていたのを風景が浮かびます。
 
あの時は、少し大変だったなぁ・・・
 
10月に入り、東京女子医科大学からの連絡があって
 
11月から入院してもらって、心臓検査し状態が良ければ心臓手術に入るという内容でした。
 
早速、荷造りをしていた、この時、いつも小さい頃か面倒を見てくれてた祖母が
 
僕のことを見て、涙ながら「伸ちゃんが居ないと寂しいね。」と呟いてたの
 
僕は聞いてて、本当に辛かったです。
 
11月になり、朝から車に荷物を乗せて、祖母へ僕が必ず帰ってくるからね!
 
毎日電話するから大丈夫だよっ!と言って祖母を安心させるようにして
 
車に乗り込んで、車の窓から手を振って
 
祖母も車を見つめながら手を振っていたのを今でも、鮮明に覚えてて
 
すぐ涙が出そうです。
 
 
― 2度目の2箇所を同時、心臓手術 ―
 
 
小松空港から羽田空港へ移動
 
羽田空港から、東京女子医科大学
 
2度目の再入院です。
 
数週間、ずぅーっと毎日朝、連続の検査でした。
 
レントゲン・心電図・超音波・カテーテル・血液、等々
 
夜になると、やっぱり自分一人だったので、両親はホテルに泊まり
 
寂しいから、毎日、祖母へ電話してた
 
祖母は、仏間で祈ってると、電話がなる度に「伸ちゃんかな?伸ちゃんかな?」って
 
心のなかでそう想っていたそうです。
 
それを聞いちゃうとやっぱりね。。。僕もちょっと辛かったなー、と悲しかったのと
 
反面、よし!もっと強くなって元気な姿になって帰ろう!と決心が大きく決めた。
 
心臓の状態の結果、医者からすごく良い状態で大小判ですね!!と押してくれた。
 
その時は、気持ちが嬉しかった。
 
心臓手術前に、病院内でアナウンスが流れるです。
 
「院長先生が診察を回りまーす」だったかなぁ?そんな気がします。
 
必ず院長先生と医者のメンバー揃いして各病室へ診て回ってくるんだよね。
 
今で言えば、ドラマで見かけると思いますが・・・。あんな感じです。
 
僕の番が来て、僕のベッドの周りに20人くらいズラ~と並んでるんですよね
 
僕から見るとさすがに引いてて・・・「うわぁ・・・すごい医者だなぁ・・」と思ってた(笑)
 
院長先生が僕の心臓を聴診器で当てて、一言こう言われた
 
「手術したら180度の人生が変わる、
 
君は手術後に社会を出なければならない、これからどうしていくか考えてるか?」
 
↑これだったんですね
 
その時、僕は目の前で聞いてて覚えてるんだけど、その意味がわからなかったんですよね
 
僕が答えたのは、「まだ、分かんない」と言った気がします。
 
院長先生が胸に当てていた聴診器で聞きつつ、スッと20人に居てたメンバーと一緒に
 
他の病室へ移動して行った。
 
母が、「色々、考えなきゃだね」と・・・
 
翌日になるまで、僕は、色々考えてました。
 
どんな事か?
 
僕は、小さい時に、遠くまで行けれなかったこと。
 
何でもやってみたいことが多かった。
 
これで、やっと自由になれるんだなぁーと心の中でそう想って
 
翌朝まで、断食でお水は少し飲んでもOKとの事。
 
朝の10時だったかなぁ
 
手術室に入る前に、両親が「伸ちゃん頑張ってね!」と言って見送ってくれました
 
手術室に入って、担当医が、「頑張ってくださいね。すぐ、元気になりますから」と
 
麻酔が効いてきて、気付いたら寝てたけんだけど
 
薄々と覚えてるのは、首と右腕と左足の裏まで痛み止め+麻酔剤だったのかな?
 
針が入ってるのが分かって目覚めたらダメなんだろうなと、意識の咄嗟で2度寝しました。
 
目覚めた頃は、夕方だったと思う。
 
手術は成功しました。
 
心臓手術の内容だと
 
左側の脇にあった、人工パイパス( 人工血管置換術 )から心臓に繋がっているのを
 
取り外して、次に本題となる心臓の手術が下の画像の様に
 
 
※ 体験の為、分かるようにネットで画像をお借りして拾いました
ごめんなさい。
 
 
胸骨(ピンク色の部分)と言う部分がありますよね。
 
その胸骨の下から上へ、線ノコで綺麗にスッパリと切るんです。
 
そうでないと、本題となる心臓手術が出来ないのです。
 
胸骨を切り開いて、心臓の中へ切り開き
 
入り牛革のようなのを、心臓の穴を塞ぎ何箇所かそのような感じで縫い合わせて
 
何年後かすると、縫いつけた革の上に筋肉が覆われて更に丈夫になっていく形でした。
 
1箇所だけが難点となったのが、大動脈の弁膜が近すぎて出来ない。

僕の場合の弁膜は、左側の部分は普通で右側が短くて痙攣したみたいに動くみたいで

その原因で逆流してしまう。
 
ファロー失調症による、特徴に見られるそうです
 
健康な人の心臓は、大動脈の弁膜が普通に呼吸するみたいに動くんだそうです、

そのおかげで逆流しにくいと言う話でした。
 
ほぼ、99%の成功率でした。
 
目が覚めて気付いたのは、ICC室に居てたの覚えてます。
 
3日間そこに居て、一般の個室へ移動してようやく
 
両親との対面出来て、僕もすごく嬉しかったのを覚えてる
 
実は、ICCの時に、僕が眠ってる間に両親が来てて、僕の爪を見せながら
 
ほら、綺麗になりましたでしょう?健康な色になりました。
 
ファロー失調症だと、紫色に近いし健康面にも良くなかったのを比べ
 
顔も爪も健康な色です。良かったですね!と医者がそう言ってくれてたみたいです。
 
一般個室に居てから、数週間して、今度は大部屋へ移動。
 
ここから大変だったのは、僕が食事そのものがあまり好きになれないせいで
 
毎日点滴でしたねー・・・。
 
ホントに薬漬け状態です。食事は、食べれる所まで食べて頑張っているものの
 
点滴(薬品)の匂いがかなり強くって、ジュースにしてもご飯にしてもお菓子にしても
 
美味しく感じなかったのを、すごく覚えています。
 
そして、何よりも大変だったのは、起き上がる事と咳込んでいる時に
 
前の肋骨がピキピキっと痛みが走るんですよね。。。
 
起き上がる時は、ホントに辛かった・・・
 
起きる時には、肋骨の前部分が歪んでしまうし、グラグラする感覚が
 
何とも気持ち悪かった・・・今でも覚えてます
 
なので、起き上がる時は、頭に置いてある枕を手で持って胸に当てて置きます。
 
咳する時も、同様でした。
 
それを、起きるのも咳するのも繰り返し、食事がしっかりと取れてないのもあって
 
退院予定が大幅に遅れていた・・・。
 
気付けば、12月になっていた。
 
肌寒い12月には、東京にも雪が降っていたのを今でも鮮明に蘇ってきます。
 
祖母が寂しいだろうから、電話を掛け出るのを待っていた
 
トゥルルル・・・トゥルルル・・・・ガチャ、祖母「もしもし、○○です」と
 
って言っていた、聞き慣れている祖母の声が僕の耳元に聞こえてきてて
 
僕の心の中で「あー優しい祖母の声だ」と感情が凄く熱くなって気付いてたら涙が出ていたのを
 
覚えています。
 
僕が「もしもし、僕だよ!」と言ったら、
 
祖母が「あぁ!伸ちゃん!元気な声だね。毎日、伸ちゃんが居ないから居ないのに
 
癖で、伸ちゃんって呼んでしまうのよー」と涙声で震えてたのを覚えています。
 
今でも、忘れられません。
 
僕が「必ず、元気に退院するから待っててね。」と言って電話を切った。
 
それから、何日も頑張って食事を取れるように頑張って取ってた
 
舌自体がもう、感覚もなくって味自体がもう薬の成分しか無かったし匂いもそうだったなぁ
 
手術痕は、触ると痛いし着ているもの布が当たってて痛かったし
 
何よりも大変でした。
 
そして、ようやく退院出来たのが12月中旬だった。
 
無事に家へ帰宅することが出来て、祖母へ会えた!
 
この瞬間は、今でも忘れられない記憶です。